斯れ乃ち洪鐘響くと雖も、必ず扣くを待ちて方に鳴る。大聖の慈を垂れたまふや、必ず請を待ちて當に説くべし、故に「一時」と名く。又「一時」とは、阿闍世正しく逆を起す時、佛何れの處にか在ます。此の一時に當りて、如來獨り二衆と彼の耆闍に在ます。此れ即ち下を以て上を形す意なり、故に「一時」と曰ふ。又「一時」と言ふは、佛と二衆と一時の中に於て、彼の耆闍に在まして即ち阿闍世の此の惡逆を起す因縁を聞きたまふ。此れ即ち上を以て下を形す意なり、故に「一時」と曰ふ。
二に「佛」と言ふは、此れ即ち化主を標定す。餘佛に簡異して獨り釋迦を顯す意なり。
三に「在王舍城」より已下は、正しく如來遊化の處を明す。即ち其の二有り。一に王城聚落に遊びたまふは、在俗の衆を化せんが爲なり。二には耆山等の處に遊びたまふは、出家の衆を化せんが爲なり。又在家といふは五欲を貪求すること相續して是常なり。縱ひ淸心を發せども猶し水に畫くが如し。但縁に隨ひて普く益するを以て大悲を捨てず。道俗形殊にして共に住するに由無し、此を境界住と名く。又出家といふは、身を亡じ命を捨て、欲を斷じ眞に歸す。心金剛の若く、圓鏡に等同なり。佛地を悕求して即ち弘く自他を益す。若し囂塵を絶離するに非ずば、此の德證すべきに由無し、此を依止住と名く。
四に「與大比丘衆」より下「而爲上首」に至る已來は、佛の徒衆を明す。此の衆の中に就て、即ち分ちて二と爲す。一には聲聞衆、二には菩薩衆なり。聲聞衆の中に就て、即ち其の九有り。初めに「與」と言ふは佛身衆を兼ぬ、故に名けて「與」と爲す。二には總大、三には相大、四には衆大、五には耆年大、六には數大、七には尊宿大、八には内有實德大、九には果證大なり。 問て曰く。一切の經の首に皆此等の聲聞有りて、以て猶置と爲せるは何の所以か有る。答て曰く。此に別意有り。云何なるか別意なる。此等の聲聞は多く是外道なり。『賢愚經』(卷二意)に説くが如し。