斯の三義有りて身心を切逼す、憔悴すること無きことを得んや。
二に「遙向耆闍崛山」より下「未擧頭頃」に至る已來は、正しく夫人禁に因て佛を請じ、意に陳ぶる所有ることを明す。此れ夫人既に囚禁に在りて、自身佛邊に到ることを得るに由無し。唯單心のみ有りて、面を耆闍に向け遙に世尊を禮して、願はくは佛の慈悲弟子愁憂の意を表知したまへといふことを明す。「如來在昔之時」と言ふ已下は、此に二義有り。一には父の王未だ禁ぜられざる時は、或は王及び我が身親しく佛邊に到るべし、或は如來及び諸の弟子をして親しく王の請を受けしめつべし。然るに我及び王の身倶に囚禁に在りて、因縁斷絶し、彼此情乖けることを明す。二には父の王禁に在りてより已來、數々世尊阿難を遣はして來らしめて我を慰問したまふことを蒙ることを明す。云何が慰問する。父の王の囚禁せらるるを見るを以て、佛夫人の憂惱せんことを恐れたまふ。是の因縁を以ての故に慰問せしめたまふ。「世尊威重無由得見」と言ふは、此れ夫人内に自ら卑謙して佛弟子に歸尊す。穢質の女身、福因尠薄なり。佛德は威高し、輕しく觸るるに由無し。願はくは目連等を遣はして、我が與に相見えしめたまへといふことを明す。 問て曰く。如來は即ち是化主なり應に時宜を失ひたまはざるべし。夫人何を以てか三び致請を加へずして、乃ち目連等を喚ぶは、何の意か有るや。答て曰く。佛德尊嚴なり、小縁もて敢へて輒く請ずべからず。但阿難を見て語を傳へて往いて世尊に白さしめんと欲す。佛我が意を知りたまはば復阿難をして佛の語を傳へて我に指授せしめたまはんと。斯の義を以ての故に阿難を見えんことを願ふ。 「作是語已」と言ふは、總じて前の意を説き竟るなり。「悲泣雨涙」と言ふは、此れ夫人自ら唯罪重し、佛の加哀を請ひて、敬を致す情深くして、悲涙目に滿てり。但靈儀を渇仰するを以て、復加々遙かに禮し、頂を叩きて跱し、須臾にして未だ擧げざることを明す。
三に「爾時世尊」より下「天華持用供養」に至る已來は、正しく世尊自ら來りて請に赴きたまふことを明す。此れ世尊耆闍に在すと雖も已に夫人の心念の意を知りたまふことを明す。