已下の諸觀の邪正得失、一に此に同じ。日を觀ずるに日を見るは、心境相應す。名けて正觀と爲す。日を觀ずるに日を見ずして、乃ち餘の雜境等を見るは、心境相應せず。故に邪と名く。斯れ乃ち娑婆の闇宅には、事に觸れて以て比方すべきこと無し。唯朗日輝を舒ぶる有りて、想を寄せて遠く極樂を標す。
五に「是爲」より已下は總じて結す。
上來五句の不同有りと雖も、廣く日觀を明し竟んぬ。
[二、水觀]
二に水觀の中に就て、亦先づ擧げ、次に辨じ、後に結す。即ち其の六有り。
一に「次作水想」より下「内外映徹」に至る已來は、總じて地の體を標す。 問て曰く。前に敎へて日を觀ぜしむるは、業相等を知らしめんが爲なり。故に日を觀ぜしむ。今此の觀の中に、又敎へて水を觀ぜしむる、何の所以か有る。答て曰く。日輪常に照らし、以て極樂の長暉を表す。復彼の地平らならずして、此の穢國の高下に類せんことを恐る。但娑婆の闇宅には、唯日のみ能く明かにして、此の界には丘坑ありて、未だ高下無き處あらず。能く平らなる者を取らむと欲すれば、水に過ぎたるは無きを以て、斯の可平の相を示して、彼の瑠璃の地に況するなり。 又問て曰く。此の界の水は、溼ひて且輭かなり。未審し、彼の地亦此の水に同ずるや。答て曰く。此の界の平水を、以て彼の地の等しくして高下無きに對す。又水を轉じて冰と成すは、彼瑠璃の地の内外映徹せるに對す。此れ彌陀曠劫に等しく行じて偏無く、正・習倶に亡じて、能く地輪の映徹せるを感ずることを明す。 又問て曰く。既に敎へて水を想ひて以て心を住せしめ、水を轉じて以て冰と成し、冰を轉じて以て瑠璃地と成すは、云何が作法して境をして現ぜしむるや。答て曰く。若し住身の威儀は、一に前の日觀の中の法に同じ。又水を觀じて以て定心を取らんと欲すれば、還て須く相似の境に對して觀ずべし。即ち定を得べきこと易し。行者等靜處に於て一椀の水を取りて、牀の前の地の上に著けて、好く盛りて之に滿し、