七に「餘諸身相」より已下は、指して觀音に同ず。
八に「此菩薩行時」より下「如極樂世界」に至る已來は、正しく行じたまふに觀音と同じからざる相を明す。即ち其の四有り。一には行の不同の相を明す。二には震動の遠近の相を明す。三には震動する所處、華現ずること多きことを明す。四には所現の華高くして且顯れ、諸の瑩飾多くして以て極樂の莊嚴に類することを明す。
九に「此菩薩坐時」より下「度苦衆生」に至る已來は、正しく坐したまふに觀音に同じからざる相を明す。即ち其の七有り。一には坐する相を明す。二には先づ本國を動ずる相を明す。三には次に他方を動ずる遠近の相を明す。四には下上の佛刹を動搖する多少の相を明す。五には彌陀・觀音等の分身の雲集する相を明す。六には空に臨みて側塞して、皆寶華に坐することを明す。七には分身の説法、各々所宜に應ずることを明す。 問て曰く。『彌陀經』に云く。「彼國の衆生衆の苦有ること無く、但諸の樂のみを受く、故に極樂と名く」と。何が故に此の經に、分身法を説きて乃ち苦を度すと云へるは、何の意か有るや。答て曰く。今苦樂と言ふは、二種有り。一には三界の中の苦樂、二には淨土の中の苦樂なり。三界の苦樂と言ふは、苦は則ち三塗・八苦等、樂は則ち人天の五欲放逸繋縛等の樂なり。是樂なりと言ふと雖も、然も是大苦なり。必ず竟に一念眞實の樂有ること無し。淨土の苦樂と言ふは、苦は則ち地前を地上に望めて苦と爲し、地上を地前に望めて樂と爲す。下智の證を上智の證に望めて苦と爲し、上智の證を下智の證に望めて樂と爲す。此の例一を擧ぐるに知るべし。今「度苦衆生」と言ふは、但下位を進めて上位に昇らしめ、下證を轉じて上證を得しめんが爲なり。本の所求に稱ふを即ち名けて樂と爲す。故に「度苦」と言ふ。若し然らずば、淨土の中の一切の聖人は、皆無漏を以て體と爲し、大悲もて用と爲し、畢竟常住にして、分段の生滅を離れたり。更に何の義に就てか、名けて苦と爲んや。