目の前に現ぜるが如くす。又眞實心の中の意業に、此の生死三界等の自他の依正二報を輕賎し厭捨す。不善の三業は、必ず眞實心の中に捨てたまへるを須ひよ。又若し善の三業を起さば、必ず眞實心の中に作したまひしを須ひて、内外明闇を簡ばず、皆眞實を須ひるが故に至誠心と名く。
[上品上生釋 深心譯]
「二者深心」。「深心」と言ふは、即ち是深信の心なり。亦二種有り。一には決定して深く自身は現に是罪惡生死の凡夫、曠劫より已來、常に沒し常に流轉して、出離の縁有ること無しと信ず。二には決定して深く彼の阿彌陀佛の四十八願は、衆生を攝受して、疑無く慮無く、彼の願力に乘じて、定んで往生を得と信ず。又決定して深く釋迦佛此の『觀經』に三福・九品・定散二善を説きて、彼の佛の依正二報を證讚して、人をして欣慕しむと信ず。又決定して『彌陀經』の中に、十方恒沙の諸佛、一切凡夫を證勸して、決定して生を得と深信せよ。又深信する者、仰ぎ願はくは一切の行者等、一心に唯佛語を信じて身命を顧みず、決定して行に依て、佛の捨てしめたまふをば即ち捨て、佛の行ぜしめたまふをば即ち行ず、佛の去てしめたまふ處をば即ち去つ。是を佛敎に隨順し、佛意に隨順すと名く、是を佛願に隨順すと名く、是を眞の佛弟子と名く。又一切の行者、但能く此の經に依て行を深信する者は、必ず衆生を誤らざるなり。何を以ての故に、佛は是滿足大悲の人なるが故に、實語なるが故に。佛を除きて已還は、智行未だ滿たず、其れ學地に在りて、正習の二障有りて未だ除こらざるに由て、果願未だ圓かならず。此等の凡聖は、縱使ひ諸佛の敎意を測量すれども、未だ決了すること能はず、平章有りと雖も、要ず須く佛證を請ひて定と爲すべし。若し佛意に稱へば、即ち印可して如是如是と言はく。若し佛意に可はざれば、即ち汝等が所説是の義不如是と言ふ。印せざるは即ち無記・無利・無益の語に同じ、