今は且く道綽・善導の一家に依て、師資相承の血脈を論ずるなり。此に亦兩説有り、一には菩提流支三藏・慧寵法師・道場法師・曇鸞法師・大海禪師・法上法師。已上『安樂集』に出でたり 二には菩提流支三藏・曇鸞法師・道綽禪師・善導禪師・懷感法師・小康法師なり。已上、『唐』『宋』兩傳に出でたり

 [二、二行章]
  善導和尚、正雜二行を立てて、雜行を捨てて正行に歸するの文

『觀經疏』の第四に云はく。「行に就て信を立てば、然るに行に二種有り。一には正行、二には雜行なり。正行と言ふは、專ら往生經の行に依て行ずる者は、是を正行と名く。何者か是なるや。一心に專ら此の觀經・彌陀經・無量壽經等を讀誦する、一心に彼の國の二報莊嚴を專注し思想し觀察し憶念する、若し禮せば即ち一心に專ら彼の佛を禮する、若し口に稱せば即ち一心に專ら彼の佛を稱せよ、若し讃歎供養せば即ち一心に專ら讃歎供養する、是を名けて正と爲す。又此の正の中に就て、復二種有り。一には一心に彌陀の名號を專念して、行住坐臥に、時節の久近を問はず、念念に捨てざる者は、是を正定の業と名く、彼の佛の願に順ずるが故に。若し禮誦等に依らば即ち名づけて助業と爲す。此の正助二行を除きて已外の自餘の諸善は悉く雜行と名く。若し前の正助二行を修するは、心常に親近し憶念斷えず、名づけて無間と爲すなり。若し後の雜行を行ずるは即ち心常に間斷す、廻向して生を得べしと雖も、衆て疎雜の行と名くるとなり」と。
私に云く。此の文に就て二の意有り。一には往生の行相を明かし、二には二行の得失を判ず。 初に往生の行相を明かすといふは、善導和尚の意に依るに、往生の行多しと雖も、大に分ちて二と爲す。一には正行、二には雜行なり。 初めの正行といふは、之に付いて