しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆえに、これを「歓喜地」と名づく。これを初果に喩うることは、初果の聖者、なお睡眠し懶堕なれども、二十九有に至らず。いかにいわんや、十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまわず。かるがゆえに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力と曰う。
ここをもって龍樹大士は「即時入必定」
(易行品)と曰えり。曇鸞大師は「入正定聚之数」
(論註)と云えり。仰いでこれを憑むべし。専らこれを行ずべきなり。
良に知りぬ。徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁、和合すべしといえども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなわち内因とす。光明名の父母、これすなわち外縁とす。内外の因縁和合して、報土の真身を得証す。
かるがゆえに宗師は、「光明名号をもって十方を摂化したまう。ただ信心をして
爾者獲真実行信者心多歓喜故、是名歓喜地。是喩初果者、初果聖者尚睡眠懶堕不至二十九有。何況十方群生海帰命斯行信者摂取不捨。故名阿弥陀仏、是曰他力。是以龍樹大士曰即時入必定、曇鸞大師云入正定聚之数。仰可憑斯、専可行斯也。
良知無徳号慈父能生因闕、無光明悲母所生縁乖。能所因縁、雖可和合非信心業識無到光明土。真実信業識斯則為内因。光明名父母斯則為外縁。内外因縁和合得証報土真身。故宗師言以光明名号摂化十方、