求念せしむ」(礼讃)と言えり。また「念仏成仏これ真宗」(五会法事讃)と云えり。また「真宗遇いがたし」(散善義)と云えるをや、知るべし、と。
 98おおよそ往相回向の行信について、行にすなわち一念あり、また信に一念あり。行の一念と言うは、いわく称名の遍数について、選択易行の至極を顕開す。
但使信心求念。又云念仏成仏是真宗、又云真宗叵遇也、可知。
凡就往相回向行信行則有一念、亦信有一念。言行之一念者謂就称名遍数顕開選択易行至極。
 99かるがゆえに『大本』(大経)に言わく、仏、弥勒に語りたまわく、「それ、かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。当に知るべし、この人は大利を得とす。すなわちこれ無上の功徳を具足するなり」と。已上
 100光明寺の和尚は「下至一念」(散善義)と云えり。また「一声一念」(礼讃)と云えり。また「専心専念」(散善義)と云えり、と。已上 智昇師の『集諸経礼懴儀』の下巻に云わく、深心は、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして、三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。かるがゆえに深心と名づく、と。已上
 101『経』に「乃至」と言い、『釈』に「下至」と曰えり。「乃」「下」その言異なりといえども、その意、これ一なり。また「乃至」とは、
経言乃至、釈曰下至。乃下其言雖異其意惟一也。復乃至者一多包容之言。