「菩薩はかくのごとき五門の行を修して、自利利他して、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得たまえるがゆえに。」仏の所得の法を名づけて阿耨多羅三藐三菩提とす。この菩提を得るをもってのゆえに、名づけて仏とす。いま速得阿耨多羅三藐三菩提と言えるは、これ早く仏に作ることを得たまえるなり。「阿」をば無に名づく。「耨多羅」をば上に名づく。「三藐」をば正に名づく。「三」をば遍に名づく。「菩提」をば道に名づく。統ねてこれを訳して、名づけて「無上正遍道」とす。「無上」は、言うこころは、この道、理を窮め性を尽くすこと、更に過ぎたる者なし。何をもってかこれを言わば、正をもってのゆえに。「正」は聖智なり。法相のごとくして知るがゆえに、称して正智とす。法性は相なきゆえに、聖智は無知なり。「遍」に二種あり。一つには、聖心遍く一切の法を知ろしめす。二つには、法身遍く法界に満てり。もしは身、もしは心、遍ぜざることなきなり。「道」は無碍道なり。『経』
(華厳経)に言わく、「十方無碍人、一道より生死を出でたまえり。」「一道」は一無碍道なり。「無碍」は、いわく、生死すなわちこれ涅槃なりと知るなり。かくのごとき等の入不二の法門は無碍の相なり。
問うて曰わく、何の因縁ありてか「速得成就阿耨多羅三藐三菩提」と言えるや。答えて曰わく、『論』に「五門の行を修して、もって自利利他成就したまえるがゆえに」と言えり。しかるに、覈にその本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁とするなり。他利と利他と、談ずるに左右あり。もしおのずから仏をして言わば、宜しく利他と言うべし。おのずから衆生をして言わば、宜しく他利と言うべし。いま将に仏力を談ぜんとす、このゆえに利他をもってこれを言う。当に知るべし、この意なり。おおよそこれ、かの浄土に生まるると、およびかの