

『論』(論註)に曰わく、「本願力」と言うは、大菩薩、法身の中にして常に三昧にましまして、種種の身・種種の神通・種種の説法を現じたまうことを示す。みな本願力より起こるをもってなり。たとえば阿修羅の琴の鼓する者なしといえども、音曲自然なるがごとし。これを教化地の第五の功徳相と名づく。乃至

「菩薩は四種の門に入りて、自利の行成就したまえりと、知るべし。」「成就」は、いわく自利満足せるなり。「応知」というは、いわく、自利に由るがゆえにすなわちよく利他す。これ自利にあたわずしてよく利他するにはあらざるなり、と知るべし。