すなわちよくしかしながら、もろもろの障、方に解脱を得しむ。この大益あるがゆえに、願じて仏を離れず」と。乃至 117『大経』に云わく、「おおよそ浄土に往生せんと欲わば、発菩提心を須いるを要とするを源とす。」云何ぞ。「菩提」はすなわちこれ無上仏道の名なり。もし発心作仏せんと欲わば、この心広大にして法界に周遍せん。この心長遠にして未来際を尽くす。この心普く備に二乗の障を離る。もしよく一たび発心すれば、無始生死の有輪を傾く、と。乃至
 118『大悲経』に云わく、「いかんが名づけて「大悲」とする。もし専ら念仏相続して断えざれば、その命終に随いて定んで安楽に生ぜん。もしよく展転してあい勧めて念仏を行ぜしむる者は、これらをことごとく、大悲を行ずる人と名づく」と。已上抄出
 119(般舟讃)光明師の云わく、ただ恨むらくは衆生の疑うまじきを疑うことを。浄土対面してあい忤わず、弥陀の摂と不摂を論ずることなかれ。意専心にして回すると回せざるとにあり。乃至 あるいは道わく、今より仏果に至るまで、長劫に仏を讃めて慈恩を報ぜんと。弥陀の弘誓の力を蒙らずは、いずれの時・いずれの劫にか娑婆を出でん、と。乃至 いかんが今日宝国に至ることを期せん。実にこれ娑婆本師の力なり。もし本師知識の勧めにあらずは、弥陀の浄土、云何してか入らん、と。
 120(往生礼讃)また云わく、仏世はなはだ値い難し、人信慧あること難し。たまたま希有の法を聞くこと、これまた最も難しとす。自ら信じ人を教えて信ぜしむ、難きが中に転た更難し。大悲、弘く普く化する、真に仏恩を報ずるに成る、と。