の荘厳せるところなるによって、因浄なるがゆえに果浄なり。因なくして他の因のあるにはあらずと知るべしとなり。「略して入一法句を説くがゆえに」(論)とのたまえり。上の国土の荘厳十七句と、如来の荘厳八句と、菩薩の荘厳四句とを「広」とす。入一法句は、「略」とす。何がゆえぞ広略相入を示現するとならば、諸仏菩薩に二種の法身あり。一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身に由って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出だす。この二つの法身は、異にして分かつべからず。一にして同じかるべからず。このゆえに広略相入して、絯ぬるに法の名をもってす。菩薩もし広略相入を知らざれば、すなわち自利利他にあたわず。「一法句とは、いわく清浄句なり。清浄句は、いわく真実の智慧無為法身なるがゆえに」(論)とのたまえり。この三句は展転して相入る。何の義に依ってか、これを名づけて法とする、清浄をもってのゆえに。何の義に依ってか、名づけて清浄とする、真実の智慧無為法身をもってのゆえなり。真実の智慧は実相の智慧なり。実相は無相なるがゆえに、真智は無知なり。無為法身は法性身なり。法性寂滅なるがゆえに、法身は無相なり。無相のゆえによく相ならざることなし。このゆえに相好荘厳すなわち法身なり。無知のゆえによく知らざることなし。このゆえに一切種智すなわち真実の智慧なり。真実をもってして智慧に目くることは、智慧は作にあらず非作にあらざることを明かすなり。無為をもってして法身を樹つることは、法身は色にあらず非色にあらざることを明かすなり。非にあらざれば、あに非のよく是なるにあらざらんや。けだし非なき、これを是と曰うなり。自ずから是にして、また是にあらざることを待つことなきなり。是にあらず非にあらず、百非の喩えざるところなり。このゆえに清浄句と言えり。清浄句とは、いわく真実の智慧無為法身なり。