「回向発願心」と言うは、過去および今生の身口意業に修するところの世・出世の善根、および他の一切の凡・聖の身口意業に修するところの世・出世の善根を随喜して、この自他所修の善根をもって、ことごとくみな真実の深信の心の中に回向して、かの国に生まれんと願ず。かるがゆえに「回向発願心」と名づくるなり、と。
 30(序分義)また云わく、定善は観を示す縁なり、と。
 また云わく、散善は行を顕す縁なり、と。
 (散善義)また云わく、浄土の要逢いがたし、と。文抄出
 31(往生礼讃)また云わく、『観経』の説のごとし。まず三心を具して必ず往生を得。なんらをか三とする。一つには至誠心。いわゆる、身業にかの仏を礼拝す、口業にかの仏を讃嘆し称揚す、意業にかの仏を専念し観察す。おおよそ三業を起こすに、必ず真実を須いるがゆえに、「至誠心」と名づく、と。乃至 三つには回向発願心。所作の一切の善根、ことごとくみな回して往生を願ず、かるがゆえに「回向発願心」と名づく。この三心を具して必ず生を得るなり。もし一心少けぬればすなわち生を得ず。『観経』に具に説くがごとし。知るべし、と。乃至 また菩薩はすでに生死を勉れて、所作の善法、回して仏果を求む、すなわちこれ自利なり。衆生を教化して未来際を尽くす、すなわちこれ利他なり。しかるに今の時の衆生、ことごとく煩悩のために繫縛せられて、未だ悪道生死等の苦を勉れず。縁に随いて行を起こして、一切の善根具に速やかに回して、阿弥陀仏国に往生せんと願ぜん。かの国に到り已りて更に畏るるところなけん。上のごときの四修、自然任運にして自利利他具足せざることなしと、知るべし、と。