32(往生礼讃)また云わく、もし専を捨てて雑業を修せんとする者は、百は時に希に一二を得、千は時に希に五三を得。何をもってのゆえに。いまし雑縁乱動す、正念を失するに由るがゆえに、仏の本願と相応せざるがゆえに、教と相違せるがゆえに、仏語に順ぜざるがゆえに、係念相続せざるがゆえに、憶想間断するがゆえに、回願慇重真実ならざるがゆえに、貪瞋諸見の煩悩来り間断するがゆえに、慚愧懺悔の心あることなきがゆえに。懺悔に三品あり。乃至 上・中・下なり。上品の懺悔とは、身の毛孔の中より血を流し、眼の中より血出だすをば、上品の懺悔と名づく。中品の懺悔とは、遍身に熱き汗毛孔より出ず、眼の中より血の流るるは、中品の懺悔と名づく。下品の懺悔とは、遍身徹り熱く、眼の中より涙出ずるをば、下品の懺悔と名づく。これらの三品、差別ありといえども、これ久しく解脱分の善根を種えたる人なり。今生に法を敬い、人を重くし身命を惜しまず、乃至小罪ももし懴すればすなわちよく心髄に徹りて、よくかくのごとく懴すれば、久近を問わず、所有の重障みなたちまちに滅尽せしむることをいたす。もしかくのごとくせざれば、たとい日夜十二時、急に走むれども終にこれ益なし。差うて作さざる者は、知りぬべし、と。流涙流血等にあたわずといえども、ただよく真心徹到する者は、すなわち上と同じ、と。已上
 33(観念法門)また云わく、すべて余の雑業の行者を照摂すと論ぜず、と。
 34(法事讃)また云わく、如来、五濁に出現して、よろしきに随いて方便して群萠を化したまう。あるいは「多聞にして得度す」と説き、あるいは「少しき解りて三明を証す」と説く、あるいは「福恵双べて障を除く」と教え、あるいは「禅念して座して思量せよ」と教う。種種の法門みな解脱す、と。