摂取不捨を顕さんと欲す。しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまう。報土の真因は信楽を正とするがゆえなり。ここをもって『大経』には「信楽」と言えり。如来の誓願疑蓋雑わることなきがゆえに「信」と言えるなり。『観経』には「深心」と説けり。諸機の浅信に対せるがゆえに「深」と言えるなり。『小本』には「一心」と言えり、二行雑わることなきがゆえに「一」と言えるなり。また一心について深あり浅あり。「深」とは利他真実の心これなり、「浅」とは定散自利の心これなり。
宗師
(善導)の意に依るに、「心に依って勝行を起こせり、門八万四千に余れり、漸・頓すなわちおのおの所宜に称いて、縁に随う者、すなわちみな解脱を蒙れり」
(玄義分)と云えり。
しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。ここをもって立相住心なお成じがたきがゆえに、「たとい千年の寿を尽くすとも法眼未だかつて開けず」
(定善義)と言えり。いかに況や無相離念誠に獲がたし。かるがゆえに
斯乃開金剛真心、欲顕摂取不捨。然者濁世能化釈迦善逝、宣説至心信楽之願心、報土真因信楽為正故也。是以大経言信楽、如来誓願疑蓋無雑故言信也。観経説深心、対諸機浅信故言深也。小本言一心、二行無雑故言一也。復就一心有深有浅。深者利他真実之心是也、浅者定散自利之心是也。依宗師意、云依心起於勝行、門余八万四千、漸頓則各称所宜、随縁者則皆蒙解脱。然常没凡愚、定心難修、息慮凝心故。散心難行、廃悪修善故。是以立相住心尚難成故、言縦尽千年寿、法眼未曾開。何況無相離念、誠難獲。故言如来懸知末代罪濁凡夫、立相住心尚不能得、