御消息集(善性本)

(一) 一のイ
 畏申候
 『〔大無量寿〕経』に「信心歓〔喜〕」と候う。〔『華厳経』を引きて『浄土〕和讃』にも、「信心よろこぶその人を 如来とひとしと説きたまう 大信心は仏性なり 仏性すなわち如来なり」と仰せられて候うに、専修の人の中に、ある人、心得ちがえて候うやらん、「信心よろこぶ人を如来とひとしと同行達ののたまうは自力なり。真言にかたよりたり」と申し候うなる。人のうえを知るべきに候わねども申し候う。また、「真実信心うる人は すなわち定聚のかず〔に〕入る 不退の位に入りぬれば かならず滅度をさとらしむ」(大経讃)と候うは、この度この身の終わり候わん時、真実信心の行者の心、報土にいたり候いなば、寿命無量を体として、光明無量の徳用はなれたまわざれば、如来の心光に一味なり、このゆえ「大信心は仏性なり、仏性はすなわち如来なり」(涅槃経)と仰せられて候うやらん。これは、十一・二・三の御誓と心得られ候う。罪悪の我等がためにおこしたまえる大悲の御誓のめでたく、あわれにましますうれしさ、こころもおよばれず、ことばもたえて申しつくしがたき事かぎりなく候う。自無始〔曠〕劫以来、過去遠々に、恒沙の諸仏の出世の所にて、自力ノ〔大〕菩提心おこすといえども、さとり〔自力〕かなわず、