p594 / 親鸞聖人血脈文集

親鸞聖人血脈文集

(一)かさまの念仏者のうたがいとわれたる事
 それ、浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺の論家・浄土の祖師のおおせられたることなり。まず、自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがいて、余の仏号を称念し、余の善根を修行して、わがみをたのみ、わがはからいのこころをもって、身・口・意のみだれごころをつくろい、めでとうしなして、浄土へ往生せんとおもうを、自力と申すなり。また、他力と申すことは、弥陀如来の御ちかいの中に、選択摂取したまえる第十八の念仏往生の本願を信楽するを、他力と申すなり。如来の御ちかいなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人のおおせごとにてありき。義ということは、はからうことばなり。行者のはからいは自力なれば、義というなり。他力は、本願を信楽して往生必定なるゆえに、さらに義なしとなり。しかれば、わがみのわるければいかでか如来むかえたまわんとおもうべからず。凡夫はもとより煩悩具足したるゆえに、わるきものとおもうべし。また、わがこころよければ往生すべしとおもうべからず。自力の御はからいにては真実の報土へうまるべからざるなり。「行者のおのおのの自力の信にては、懈慢・辺地の往生、胎生・疑城の浄土までぞ、往生せらるることにてあるべき」とぞ、うけたまわりたりし。第十八の本願成就のゆえに、阿弥陀如来とならせたまいて、不可思議の利益きわまりましまさぬ御かたちを、天親菩薩は