尽十方無碍光如来とあらわしたまえり。このゆえに、よきあしき人をきらわず、煩悩のこころをえらばずへだてずして、往生はかならずするなりとしるべしとなり。しかれば、恵心院の和尚は『往生要集』には、本願の念仏を信楽するありさまをあらわせるには、「行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらわず」とおおせられたり。「真実の信心をえたる人は摂取のひかりにおさめとられまいらせたり」とたしかにあらわせり。しかれば、「無明煩悩を具して安養浄土に往生すれば、かならずすなわち、無上仏果にいたる」と、釈迦如来ときたまえり。しかるに、「五濁悪世のわれら、釈迦一仏のみことを信受せんことありがたかるべしとて、十方恒沙の諸仏、証人とならせたまう」(散善義意)と、善導和尚は釈したまえり。「釈迦・弥陀・十方の諸仏、みなおなじ御こころにて、本願念仏の衆生には、かげのかたちにそえるがごとくしてはなれたまわず」とあかせり。しかれば、この信心の人を釈迦如来は、「わがしたしきともなり」(大経)と、よろこびまします。この信心の人を「真の仏弟子」といえり。この人を正念に住する人とす。この人は、摂取してすてたまわざれば、金剛心をえたる人と申すなり。この人を、「上上人とも、好人とも、妙好人とも、最勝人とも、希有人とももうす」(散善義意)なり。この人は正定聚のくらいにさだまれるなりとしるべし。しかれば、「弥勒仏とひとしき人」とのたまえり。これは真実信心をえたるゆえに、かならず真実の報土に往生するなりとしるべし。この信心をうることは、釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便よりたまわりたるとしるべし。しかれば、「諸仏の御おしえをそしることなし。余の善根を行ずる人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人をも、にくみそしることあるべからず。あわれみをなし、かなしむこころをもつべし」とこそ、聖人(法然)はおおせごと