思不思というは、思不思議の法は、聖道八万四千の諸善なり。不思というは、浄土の教は不可思議の教法なり。これらはかようにしるしもうしたり。よくしれらんひとにたずねもうしたまうべし。またくわしくはこのふみにてもうすべくも候わず。目もみえず候う。なにごともみなわすれて候ううえに、ひとなどにあきらかにもうすべき身にもあらず候う。よくよく浄土の学生に、といもうしたまうべし。あなかしこ、あなかしこ。
 閏三月二日     親鸞

(九)御ふみくわしくうけ給わり候いぬ。さては、この御ふしんしかるべしともおぼえず候う。そのゆえは、誓願・名号と申して、かわりたること候わず候う。誓願をはなれたる名号も候わず候う、名号をはなれたる誓願も候わず候う。かく申し候うも、はからいにて候うなり。ただ、誓願を不思議と信じ、また名号を不思議と一念信じとなえつるうえは、なんじょうわがはからいをいたすべき。ききわけ、しりわくるなんど、わずらわしくはおおせ候うやらん。これみなひがごとにて候うなり。ただ、不思議と信じつるうえは、とかく御はからいあるべからず候う。おうじょうのごうには、わたくしのはからいはあるまじく候うなり。あなかしこ、あなかしこ。如来にまかせまいらせおわしますべく候う。あなかしこ、あなかしこ。
 五月五日
きょうようの御房へ     親鸞(花押)
このふみをもって、人々にもみせまいらせさせ給うべく候う。他力には、義なきを義とは申し候うなり。

(一〇)御ふみくわしくうけ給わり候いぬ。さては、ごほうもんのごふしんに、一念発起信心のとき無碍の心光に