本願寺の上人親鸞あるとき門弟にしめしてのたまわく、つねに人のしるところ、夜あけて日輪はいずや、日輪やいでて夜あくや、両篇、なんだち、いかんがしると云々 うちまかせて、人みなおもえらく、夜あけてのち日いず、とこたえ申す。上人のたまわく、しからざるなりと。日いでてまさに夜あくるものなり。そのゆえは、日輪まさに須弥の半腹を行度するとき、他州のひかりちかずくについて、この南州、あきらかになれば、日いでて、夜はあくというなり。これはこれ、無碍光の日輪、照触せざるときは、永永昏闇の無明の夜あけず。しかるにいま、宿善ときいたりて、不断難思の日輪、貪瞋の半腹に行度するとき、無明ようやく闇はれて、信心たちまちにあきらかなり。しかりといえども、貪瞋の雲霧、かりにおおうによりて、炎王清浄等の日光あらわれず。これによりて、「煩悩障眼雖不能見」(往生要集)とも釈し、「已能雖破無明闇」(正信偈)とらのたまえり。日輪の他力、いたらざるほどは、われと無明を破すということ、あるべからず。無明を破せずは、また出離その期あるべからず。他力をもって、無明を破するがゆえに、日いでてのち、夜あくというなり。これさきの光明名号の義に、こころおなじといえども、自力・他力を分別せられんために、法譬を合して、おおせごとありきと云々

4 一 善悪二業の事。
 上人親鸞おおせにのたまわく、某はまったく善もほしからず、また悪もおそれなし。善のほしからざるゆえは、弥陀の本願を信受するにまされる善なきがゆえに。悪のおそれなきというは、弥陀の本願をさまたぐる悪なきがゆえに。しかるに、世の人みなおもえらく、善根を具足せずんば、たとい念仏すというとも、往生すべからず、と。