の『経』の深信因果は、三福業の随一なり。この三福の業はまた人天有漏の業なり。就中に深信因果の道理によらば、あに凡夫往生ののぞみをとげんや。まず十悪において「上品に犯するものは地獄道に堕し、中品に犯するものは餓鬼道に堕し、下品に犯するものは畜生道におもむく」といえり。これ大乗の性相の定むるところなり。もしいまの凡夫所犯の現因によりて当来の果を感ずべくんば、三悪道に堕在すべし。人中・天上の果報なおもて五戒・十善まったからずは、いかでかのぞみをかけんや。いかにいわんや、出過三界の無漏無生の報国報土に生まるる道理あるべからず。しかりといえども、弥陀超世の大願、十悪・五逆・四重・謗法の機の為なれば、かの願力の強盛なるに、よこさまに超截せられ奉りて、三途の苦因を永くたちて、猛火洞燃の業果をとどめられ奉ること、おおきに因果の道理にそむけり。もし深信因果の機たるべくんば、殖うる所の悪因のひかんところは悪果なるべければ、たとい弥陀の本願を信ずと云うとも、その願力はいたずらごとにて、念仏の衆生三途に堕在すべきをや。もししかりといわば、弥陀五劫思惟の本願も、釈尊無虚妄の金言も、諸仏誠諦の証誠も、いたずらごとなるべきにや。凡そ他力一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なりというは、凡夫の報土に生まるるというをもってなり。もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねおりたる他力の別途、空しくなりぬべし。そのゆえは、たすけましまさんとする十方衆生たる凡夫、因果相順の理に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生まるべからざるゆえなり。いま報土得生の機にあたえまします仏智の一念は、すなわち仏因なり。かの仏因にひかれてうるところの定聚のくらい滅度に至ると云うは、すなわち仏果なり。この仏因・仏果においては、他力より成ずれば