p916 / 唯信鈔

唯信鈔

安居院法印聖覚作
 それ、生死をはなれ、仏道をならんとおもわんに、ふたつのみちあるべし。ひとつには聖道門、ふたつには浄土門なり。聖道門というは、この娑婆世界にありて、行をたて功をつみて今生に証をとらんとはげむなり。いわゆる、真言をおこなうともがらは、即身に大覚のくらいにのぼらんとおもい、法華をつとむるたぐいは、今生に六根の証をえんとねがうなり。まことに教の本意、しるべけれども、末法にいたり濁世におよびぬれば、現身にさとりをうること、億億の人の中に一人もありがたし。これによりて、いまのよにこの門をつとむる人は、即身の証においては、みずから退屈のこころをおこして、あるいは、はるかに慈尊の下生を期して、五十六億七千万歳のあかつきのそらをのぞみ、あるいは、とおく後仏の出世をまちて、多生曠劫、流転生死のよるのくもにまどえり。あるいは、わずかに霊山・補陀落の霊地をねがい、あるいは、ふたたび天上人間の小報をのぞむ。結縁まことにとうとむべけれども、速証すでにむなしきににたり。ねがうところ、なおこれ三界のうち、のぞむところ、また輪回の報なり。なにのゆえか、そこばくの行業慧解をめぐらして、この小報をのぞまんや。まことにこれ大聖をさることとおきにより、理ふかく、さとりすくなきがいたすところか。ふたつに浄土門というは、今生の行業を回向して、順次生に浄土にうまれて、浄土にして菩薩の行を具足して、仏にな