らんと願ずるなり。この門は末代の機にかなえり。まことにたくみなりとす。ただし、この門に、またふたつのすじ、わかれたり。ひとつには諸行往生、ふたつには念仏往生なり。諸行往生というは、あるいは父母に孝養し、あるいは師長に奉事し、あるいは五戒・八戒をたもち、あるいは布施・忍辱を行じ、乃至三密・一乗の行をめぐらして、浄土に往生せんとねがうなり。これみな往生をとげざるにあらず。一切の行はみなこれ浄土の行なるがゆえに。ただ、これはみずからの行をはげみて往生をねがうがゆえに、自力の往生となづく。行業、もしおろそかならば、往生とげがたし。かの阿弥陀仏の本願にあらず。摂取の光明のてらさざるところなり。ふたつに念仏往生というは、阿弥陀の名号をとなえて往生をねがうなり。これは、かの仏の本願に順ずるがゆえに、正定の業となづく。ひとえに弥陀の願力にひかるるがゆえに、他力の往生となづく。そもそも名号をとなうるは、なにのゆえに、かの仏の本願にかなうとはいうぞというに、そのことのおこりは、阿弥陀如来いまだ仏になりたまわざりしむかし、法蔵比丘ともうしき。そのときに、仏ましましき。世自在王仏ともうしき。法蔵比丘すでに菩提心をおこして、清浄の国土をしめて、衆生を利益せんとおぼして、仏のみもとへまいりてもうしたまわく、「われすでに菩提心をおこして、清浄の仏国をもうけんとおもう。ねがわくは、仏、わがために、ひろく仏国を荘厳する無量の妙行をおしえたまえ」と。そのときに、世自在王仏、二百一十億の諸仏の浄土の人天の善悪、国土の麁妙をことごとくこれをとき、ことごとくこれを現じたまいき。法蔵比丘これをきき、これをみて、悪をえらびて善をとり、麁をすてて妙をねがう。たとえば、三悪道ある国土をば、これをえらびてとらず。三悪道なき世界をば、これをねがいてすなわちとる。自余の願も、これにな