とも釈して、三経ともに、ただこの本願をあらわすなり。第十八の願をこころうるというは、名号をこころうるなり。名号をこころうるというは、阿弥陀仏の、衆生にかわりて願行を成就して、凡夫の往生、機にさきだちて成就せしきざみ、十方衆生の往生を、正覚の体とせしことを、領解するなり。かるがゆえに、念仏の行者、名号をきかば、「あは、はや、わが往生は成就しにけり。十方衆生往生成就せずは、正覚とらじと、ちかいたまいし法蔵菩薩の正覚の果名なるがゆえに」とおもうべし。また、弥陀仏の形像をおがみたてまつらば、「あは、はや、わが往生は成就しにけり、十方衆生往生成就せずは正覚とらじと、ちかいたまいし法蔵薩埵の成正覚の御すがたなるゆえに」とおもうべし。また極楽という名をきかば、「あは、わが往生すべきところを成就したまいにけり。衆生往生せずは正覚とらじと、ちかいたまいし法蔵比丘の成就したまえる極楽よ」とおもうべし。機をいえば、仏法と世俗との、二種の善根なき唯知作悪の機に、仏体より恒沙塵数の功徳を成就するゆえに、われらがごとくなる、愚痴悪見の衆生のための、楽のきわまりなるゆえに、極楽というなり。本願を信じ、名号をとなうとも、よそなる仏の功徳とおもうて、名号に功をいれなば、などか往生をとげざらんなんどおもわんは、かなしかるべきことなり。ひしと、われらが往生成就せしすがたを、南無阿弥陀仏とはいいけるという、信心おこりぬれば、仏体すなわちわれらが往生の行なるがゆえに、一声のところに往生を決定するなり。阿弥陀仏という名号をきかば、やがてわが往生とこころえ、わが往生はすなわち仏の正覚なり、とこころうべし。弥陀仏は正覚成じたまえるか、いまだ成じたまわざるかをば、うたがうとも、わが往生の成ずるか、成ぜざるかをば、うたがうべからず。一衆生のうえにも往生せぬことあらば、ゆめゆめ