如來淨花の中に生ずるが故に願生と曰ふ。「偈」はこれ句數の義、五言の句を以て略して佛經を誦するが故に名て偈と爲す。「婆藪」を譯して天と云ふ、「槃頭」を譯して親と言ふ、此の人を天親と字く。事『付法藏經』に在り。「菩薩」は、若し具に梵音を存せば菩提薩埵と云ふべし。「菩提」は是れ佛道の名なり、「薩埵」は或は衆生と云ふ、或は勇揵と云ふ、佛道を求る衆生勇猛の健志有るが故に菩提薩埵と名く。今但菩薩と言う譯者の略せるならくのみ。「造」は亦作なり、人に因て法を重んずることを庶ふが故に某造と云ふ、是の故に「无量壽經優婆提舍願生偈婆藪槃頭菩薩造」と言へり。論の名目を解し竟ぬと。

偈の中に分て五念門と爲す、下の長行に釋する所の如し。第一行の四句に相ひ含て三念門有り、上の三句は是礼拜・讃嘆門なり、下の一句は是作願門なり。第二行は論主自ら我れ佛經に依て論を造て佛敎と相應す服する所宗あることを述ぶ。何が故へぞ云とならば、此れ優婆提舍の名を成ぜむ爲の故へなり。亦是上の三門を成じて下の二門を起す、所以に之に次で説けり。第三行より廿一行盡まで是れ觀察門なり。末後の一行は是廻向門なり。偈の章門を分ち竟ぬ。
世尊我一心 歸命盡十方 无碍光如來 願生安樂國
「世尊」は、諸佛の通號なり、智を論ずれば則義として達ざること无し、斷を語ば則習氣餘无し、智斷具足して能く世間を利す、世の爲に尊重らるる故に世尊と曰ふ。此の言ふ意は釋迦如來に歸したてまつる。何を以てか知得となれば、下の句に「我依修多羅」と言ればなり。天親菩薩、釋迦如來の像法の中に在して、釋迦如來の經敎に順ず、所以に生と願ず。願生に宗有り、故に知ぬ