有る國土を見そなはすに、佛如來賢聖等の衆有ますと雖も國に濁せるに由が故に一を分て三を説く、或は眉を拓 聽各反 げて誚けりを致すを以てし、或は指語に縁て譏りを招く。是の故に願じて言たまはく。我が國土は皆是大乘一味にして平等一味ならしめむと。根敗の種子畢竟じて生ぜじ、女人・殘缺の名字亦斷たむと。是の故に「大乘善根界等无譏嫌名女人及根缺二乘種不生」と言たまへり。 問曰。王舍城所説の『无量壽經』を案ずるに、法藏菩薩四十八願の中(大經卷上)に言たまはく。「設我佛を得んに、國の中の聲聞能く計量有て其の數を知らば、正覺を取らじ」と。是れ聲聞有る一の證なり。又『十住毗婆沙』(卷五易行品)の中に龍樹菩薩、阿彌陀の讃を造りて云はく。「三界の獄を超出して目は蓮華葉の如し。聲聞衆无量なり。是の故に稽首し禮す」といえり。是れ聲聞有る二の證なり。又『摩訶衍論』(智度論卷三四意)の中に言はく。「佛土種種不同なり。或は佛土有り、純に是れ聲聞僧なり。或は佛土有り、純に是れ菩薩僧なり。或は佛土あり、菩薩・聲聞會して僧と爲す、阿彌陀の安樂國等の如きは是なり」。是れ聲聞有る三の證なり。諸經の中に安樂國を説くこと有る處に、多く聲聞有りと言ふて聲聞无しと言わず。聲聞は即是れ二乘の一なり。『論』に「乃至二乘の名无し」と言たまへり。此れ云何が會むや。答曰。理を以て之を推するに安樂淨土には二乘有るべからず。何に以て之を言ふとならば、それ病有るには則ち藥有り、理數の常なり。『法花經』(卷一意)に言たまはく。「釋迦牟尼如來五濁世に出を以の故に、一を分て三と爲す」。淨土既に五濁に非ず三乘无きことあきらかなり。『法花經』(卷二意)に噵はく。「諸の聲聞是の人何に於てか解脱を得む。但虚妄を離るを名けて解脱と爲す。是の人實にいまだ一切解脱を得ず。いまだ无上道を得ざるを以の故なり」。竅らかに此の理を推するに、阿羅漢既にいまだ一切解脱を得ず。