此れ云何が不思議なる、凡そ是雜生の世界には、若しは胎若しは卵、若しは濕若しは化、眷屬若干なり。苦樂万品なり、雜業を以ての故に。彼の安樂國土は是阿彌陀如來正覺淨花の化生する所にあらざること莫し。同一に念佛して別の道无きが故に、遠く通ずるに夫れ四海の内皆兄弟と爲するなり。眷屬无量なり、焉んぞ思議すべきや。
莊嚴受用功德成就とは、偈に愛樂佛法味禪三昧爲食と言へるが故にと。
此れ云何が不思議なるや、食せずして命を資く。蓋し資くる所有るゆへなり。豈に是如來本願を滿たまへるにあらずや、佛願に乘ずるを我が命と爲す。焉んぞ思議すべきや。
莊嚴无諸難功德成就とは、偈に永離身心惱受樂常无間と言へるが故にと。
此れ云何が不思議なるや、『經』に言く。身は苦器と爲す、心は惱端と爲す。而に彼に身有り心有りて樂を受ること間无し、安んぞ思議すべきや。
莊嚴大義門功德成就とは、偈に大乘善根界等无譏嫌名女人及根缺二乘種不生と言へるが故にと。淨土の果報は二種の譏嫌を離れたり、知るべし。一には躰、二には名なり。躰に三種有り。一には二乘人、二には女人、三には諸根不具人なり。此の三の過無し、故に離躰譏嫌と名く。名に亦三種有り、但三の躰無のみに非ず、乃至二乘と女人と諸根不具の三種の名を聞かず、故に名離譏嫌と名く。等は平等一相の故にと。
此れ云何が不思議なるや、夫れ諸天の器を共器には飯に隨福の色有り、足の指地に按じて乃ち金礫の旨を詳らかにす。而に往生を願ずる者、