此の寂滅平等の法を得るを以ての故に、名て平等法身と爲す。平等法身の菩薩の所得以ての故に、名て寂滅平等の法と爲すなり。此の菩薩報生三昧を得て、三昧の神力を以て、能く一處にして、一念一時に十方世界に遍じて、種種に一切諸佛及び諸佛の大會衆海を供養し、能く无量世界の佛法僧ましまさぬ處に於て、種種に示現し種種に一切衆生を敎化し度脱して常に佛事を作せども、初より往來の想・供養の想・度脱の想无し。是の故に此の身を名て平等法身と爲す、此の法を名て寂滅平等の法と爲するなり。「未證淨心の菩薩」は初地已上七地已還の諸の菩薩なり。此の菩薩亦能く身を現じて、若しは百若しは千、若しは万若しは億、若しは百千万億の无佛の國土に佛事を施作す。要ず作心を須ゐて三昧に入る、乃ち能く作心せざるには非ず。作心を以ての故に名づけて未得淨心と爲す。此の菩薩安樂淨土に生ぜむと願て即ち阿彌陀佛を見たてまつる、阿彌陀佛を見たてまつる時、上地の諸の菩薩と畢竟じて身等しく法等し。龍樹菩薩・婆藪槃頭菩薩の輩ら、彼に生と願ずるは、當に此が爲なるべしくのみと。 問曰。『十地經』を案ずるに、菩薩の進趣階級漸く无量の功勳有りて多くの劫數を逕ふ、然かふして後に乃し此を得。云何が阿彌陀佛を見たてまつる時、畢竟じて上地の諸の菩薩と身等しく法等しきや。答曰。「畢竟」と言ふは未だ即等と言ふにはあらざるなり、畢竟じてこの等しきことを失はざるが故に等と言ふならくのみと。 問曰。若し即ち等しからずば、復何を待ちてか菩薩と言ふ。但初地に登れば以て漸く增進して自然に當に佛と等しかるべし。何ぞ假に上地の菩薩と等しと言はむや。答曰。菩薩七地の中に於て大寂滅を得ば、上に諸佛の求むべきを見ず、下に衆生の度すべきを見ず、佛道を捨てて實際を證せむと欲す。爾の時に若し十方諸佛の神力をして加勸を得ずば、即便滅度して二乘と異なること无けむ。