菩薩若し安樂に往生して阿彌陀佛を見れば即ち此の難无し。是の故に須く畢竟じて平等なりと言ふべし。復次に『无量壽經』(卷上)の中、阿彌陀如來の本願に言たまはく。「設ひ我佛を得むに、他方佛土の諸の菩薩衆、我が國に來生せば、究竟じて必ず一生補處に至らむ。其の本願の自在にして、化する所の衆生の爲の故に、弘誓の鎧を被て德本を積累し、一切を度脱して、諸佛の國に遊び菩薩の行を修し十方諸佛如來を供養し、恒沙无量の衆生を開化して无上正眞の道に立せしめむをば除く。常倫に超出し諸地の行を現前し普賢の德を修習せむ。若し爾らずば正覺を取らじ」と。此の經を案じて彼の國の菩薩を推するに、或は一地より一地に至らざるべし。十地の階次と言ふは是れ釋迦如來閻浮提に於て一の應化道ならくのみ。他方の淨土は何ぞ必ず此の如くならむ。五種の不思議の中に佛法最も不可思議なり。若し菩薩必ず一地より一地に至て超越の理无しと言はば、未だ敢へて詳かならず。譬ば樹有り名て好堅と曰ふ、是の樹地より生じて百歳ならむ、乃ち具に一日に長の高さ百丈なるが如し。日日に此の如し、百歳の高を計るに、豈に脩松に類せむや。松の生長するを見るに日に寸を過ぎず、彼の好堅を聞て何ぞ能く即日を疑はざらむ。人有て釋迦如來羅漢を一聽に證し无生を終朝に制するを聞て、是れ接誘の言なり、稱實の説に非ずと謂ふて、此の論事を聞きて亦當に信ぜざるべし。夫れ非常の言は常人の耳に入らず、之を然らずと謂ふ、亦其れ宜しかるべきなり。
略して八句を説きて如來の自利利他の功德莊嚴次第に成就したまへることを示現すと、知るべし。
此は云何が次第なる、前の十七句は是れ莊嚴國土功德成就なり。既に國土の相を知ぬ、國土の主を知るべし。是の故に次に佛の莊嚴功德を觀ぜよ。