八地以上の菩薩常に三昧に在り。三昧力を以て身本處を動ぜずして能く遍く十方に至て諸佛を供養し衆生を敎化す。「无垢輪」といふは、佛地の功德なり。佛地の功德は習氣煩惱の垢无ければなり。佛諸の菩薩の爲に常に此の法輪を轉ず、諸大菩薩亦能く此の法輪を以て一切を開導すること蹔時も休息すること无し、故に常轉と言ふ。法身は日の如くして應化身の光諸の世界に遍ずるなり。日と言ふには未だ足らず、明にして不動なるを以て復如須彌住持と言るなり。「淤泥花」といふは、『經』
(維摩經卷中)に、「高原の陸地には蓮花を生ぜず卑濕の淤泥に乃ち蓮花を生ず」と言へり。此は凡夫、煩惱の埿の中に在て菩薩の爲に開導せられて能く佛の正覺の花を生ずるに喩ふ。諒に夫れ三寶を紹隆して常に絶えざらしむと。
二には彼の應化身一切の時前ならず後ならず。一心一念に大光明を放て悉く能く遍く十方世界に至て衆生を敎化す。種種に方便し修行して所作に一切衆生の苦を滅除するが故に。偈に无垢莊嚴光一念及一時普照諸佛會利益諸群生と言へるが故にと。
上に不動にして至ると言ふは、或は至ること前後有るべし。是の故に復一念一時にして前後无しと言へるなり。
三には彼一切世界に於て餘无く諸佛の會を照す。大衆餘无く廣大无量にして諸佛如來の功德を供養し恭敬し讃嘆す。偈に雨天樂花衣妙香等供養讃諸佛功德无有分別心と言へるが故にと。
「无餘」といふは明に遍く一切世界の一切諸佛の大會に至て一世界にも一佛會にも至らざること有ること无きなり。肇公
(註維摩經序意)の言はく。「法身は像无くして形をにす、竝びに至韻に應ず、言なくして玄籍彌く布けり。冥權謀りごと无くして動じて事と會す」。盖し斯の意なり。