若し爾らば先牽の義何を以てか信を取らん。又曠劫より已來備に諸行を造る、有漏の法は三界に繋屬せり、云何ぞ三界の結或を斷ぜずして直少時に阿彌陀佛を念ずるを以て便ち三界を出でんや。繋業の義復云何がせんと欲すと。此の疑を對治するが故に不思誼智と言ふ。不思誼智とは、謂く佛の智力は能く少を以て多と作し多を以て少と作し、近を以て遠と爲し遠を以て近と爲し、輕を以て重と爲し重を以て輕と爲し、長を以て短と爲し短を以て長と爲す。是の如き等の智、无量无邊不可思誼なり。譬へば百夫百年薪積を聚めて高さ千仞なるを、豆許の火もて焚くに半日に便て盡くるが如し。又躃者他の船に寄載すれば風帆の勢に因て一日に千里せんが如し、豈に躃者云何ぞ一日にして千里に至らんと言ふことを得べけんや。又下賤の貧人一の瑞物を獲て以て王に貢るに、王得る所を慶びて諸の重賞を加へ、斯須の頃に富貴望に盈つるが如し。豈以て數十年貧しく仕へて備に辛懃を盡くせども達せずして歸る者あるをもて彼の富貴を言ひて此の事无しといふことを得べけんや。又劣夫の己身の力を以て驢に擲ち上らざれども、轉輪王の行に從へば便ち虚空に乘じて飛驣自なるが如し。復擲驢の劣必ず空に乘ずること能はずと言ふことを得べけんや。又十圍の索は千夫も制らざれども、童子釰を揮へば瞬頃に兩分するが如し、豈一の小兒の力索を斷ずと言ふことを得べけんや。又鴆鳥水に入れば魚蜯斯に斃れ、犀角泥に觸るれば死せる者咸起つが如し、豈性命一び斷たば生くべきこと无しと得べけんや。又黄鵠子安を呼ぶに子安還活るが如し、豈墳下千歳決め甦るべきこと无しと得べけんや。一切の万法は皆自力・他力、自攝・他攝有りて、千開万閇无量无邊なり、安ぞ一有礙の識を以て无礙の法を疑ふことを得んや。又五の不思誼の中に佛法最不可思誼なり、而るに百年の惡を以て重と爲し、十念の念佛を疑ひて輕と爲して、安樂に往生して正定聚に入ることを得ずといはば、是の事然らず。
二には疑はく、佛智は人に於て玄絶と爲さず、何を以ての故に、夫れ一切の名字は相待從り生じ、覺智は不覺從り生じ、方に迷ふ如きは記方從り生ず。若し迷をして絶えて迷はざらしめば迷卒に解けざるべし、迷若し解くべくんば必ず迷へる者の解なり、亦解れる者の迷解とも云うべし、迷と解と解と迷と手を反覆するが猶きのみ、