經法を聞かず、菩薩・聲聞聖衆を見ず。安樂國土には之を邊地を謂ひ亦胎生と曰ふ。邊地とは言ふこころは其の五百歳の中に三寶を見聞せず、義邊地の難に同じ、或は亦安樂國土に於て最も其の邊に在り。胎生とは譬へば胎生の人初生の時、人法未だ成らずが如し。邊は其の難を言ひ、胎は其の闇を言ふ。此の二名は皆此を借りて彼を況するのみ。是八難の中の邊地に非ず、亦胞胎の中の胎生にも非ず。何を以てか之を知る、安樂國は一向に化生なるが故に、故に知る實の胎生に非ざることを、五百年の後に還三寶を見聞したてまつることを得るが故に、故に知る八難の中の邊地にも非ざることを。
問て曰く。彼の胎生の者は、七寶の宮殿の中に處して快樂を受くるや、復何をか憶念する所ぞや。答て曰く。『經』(大經卷下意)に喩へて云く。「譬へば轉輪王の子罪を王に得んに、後宮に内着し繋ぐに金鎖を以てせんが如し。一切の供具乏少する所无きこと猶し王子の如し。王子時に妙好種種の自娯樂有りと雖も、其の心に愛樂せず、但方便を設けて免るることを求め出づることを悕ふことを念ず。彼の胎生の者も亦復是の如し、七寶の宮殿に處して妙色・聲・香・味・觸有りと雖も、以樂と爲さず、但三寶を見たてまつらざるを以て供養して諸の善本を脩することを得ず、之を以て苦と爲す。其の本の罪を識りて深く自ら悔責して彼の處を離れんと求めば即ち意の如くなることを得て還三輩生の者に同じ」と。當に是五百年の末に方に罪を識りて悔を生ずべしのみ。
問て曰く。疑或心を以て安樂に往生するものを名けて胎生と曰はば、云何が疑を起すや。
答て曰く。『經』の中に但「疑或不信」と云ひて疑意する所以を出さず、不了の五句を尋ねて敢て對治を以て之を言はん。「不了佛智」とは、謂く佛の一切種智を信了すること能はざるなり。「不了の故に疑を起す」、此の一句は總じて所疑を辨ず。下の四句は一一に所疑を對治す。疑に四意有り。
一には疑はく、阿彌陀佛を憶念するも必ずしも安樂に往生することを得ざらん、何を以ての故に、『經』(業道經)に言く。「業道は秤の如し、重き者先づ牽く」と。云何ぞ一生、或は百年、或は十年、一日も惡として造らずといふこと无きもの、但十念相續するを以て便ち往生することを得て、即ち正定聚に入りて畢竟して退せず、三途の諸苦と永く隔てんや。