衆生見る者皆希有の心を生ぜんが如し。佛父王に告げたまはく。一切衆生生死の中に在りて念佛の心も亦復是の如し。但能く念を繋けて止まざれば定んで佛前に生ぜん。一び往生を得れば即ち能く一切の諸惡を改變して大慈悲を成ぜんこと彼の香樹の伊蘭林を改むるが如し」。言ふ所の伊蘭林は、衆生の身の内の三毒・三障、無邊の重罪に喩ふ、栴檀と言ふは、衆生の念佛の心に喩ふ。纔に樹と成らんと欲すといふは、謂く一切衆生但能く念を積みて斷えざれば業道成辨するなり。問て曰く。一切衆生の念佛の功を計して亦應に一切知るべし。何に因てか一念の力能く一切の諸障を斷つこと、一の香樹の四十由旬の伊蘭林を改めて悉く香美ならしむるが如くならんや。答て曰く。諸部の大乘に依て念佛三昧の功能の不可思議なるを顯さんとなり。何とならば『華嚴經』(晋譯卷五九意)に云ふが如し。「譬へば人有りて師子の筋を用て以て琴の絃と爲んに音聲一び奏するに一切の餘の絃悉く皆斷壞するが如し。若し人菩提心の中に念佛三昧を行ずるは、一切の煩惱、一切の諸鄣悉く皆斷滅す。亦人有りて牛・羊・驢馬一切の諸の乳を搆り取りて一器の中に置かんに、若し師子の乳一渧を持て之を投るるに直に過ぎて難り無し、一切の諸乳悉く皆破壞して變じて淸水と爲るが如し。若し人但能く菩提心の中に念佛三昧を行ずれば、一切の惡魔諸渧鄣直に過ぐるに難り無し」。又彼の『經』(晋釋華嚴經卷五九意)に云く。「譬へば人有りて翳身藥を持て處處に遊行するに、一切の餘人是の人を見ざるが如し。若し能く菩提心の中に念佛三昧を行ずれば一切の惡神一切の諸鄣是の人を見ず。所詣の處に隨ひて能く遮障すること無きなり。何が故に能く爾るとならば、此の念佛三昧は、即ち是一切三昧の中の王なるが故なり」と。
[第一大門 七、三身三土]
第七に略して三身三土の義を明さば、問て曰く。今現在の阿彌陀佛は是何なる身ぞ、極樂の國は是何なる土ぞや。答て曰く。