第四に問答解釋すとは、 問て曰く。若し備に萬行を修して能く菩提を感じ成佛することを得といはば、何が故ぞ『諸法無行經』(卷上)に「若し人菩提を求むれば即ち菩提有ること無し。是の人菩提を遠ざかること猶し天と地との如し」と云へるや。答て曰く。菩提の正體は理求むるに無相なり。今相を作して求む、理實に當らず。故に人遠ざかると名くるなり。是の故に『經』(維摩経卷上)に言く。「菩提は心を以て得べからず、身を以て得べからず」と。今謂く行者修行して往いて求むるを知ると雖も、了了に理體求むること無きを識知して、仍假名を壞せず。是の故に備に万行を修す、故に能く感ずるなり。是の故に『大智度論』(卷一八意)に云く。「若し人般若を見るをば是則ち縛せ被れたりと爲す。若し般若を見ざるをば是亦縛せ被れたりと爲す。若し人般若を見るをば是則ち解脱と爲す。若し般若を見ざるをば是亦解脱と爲す」と。龍樹菩薩の『釋』に曰く。「是の中に四句を離れざるをば縛と爲し、四句を離るるをば解と爲す」と。今菩提を祈めて但能く此の如く修行すれば即ち是不行にして行なり。不行にして行なれば二諦の大道理に違せざるなり。又天親の『淨土論』(論註卷下意)に依るに云く。「凡そ發心して無上菩提に會せんと欲せば、其の二義有り。一には先づ須く三種の菩提門と相違せる法を離るべし、二には須く三種の菩提門に順ずる法を知るべし。何等をか三と爲る。一には智惠門に依て自樂を求めず、我心自身に貪著することを遠離するが故に。二には慈悲門に依て一切衆生の苦を拔く、無安衆生心を遠離するが故に。三には方便門に依て一切衆生を憐愍して、心自身を恭敬し供養する心を遠離するが故に。是を三種の菩提門相違の法を遠離すと名く。順菩提門とは、菩薩は是の如きの三種の菩提門相違の法を遠離して、即ち三種の隨順菩提門の法を得るなり。何等をか三と爲す。一には無染淸淨心。自身の爲に諸樂を求めざるが故に。菩提は是無染淸淨の處なり。若し自身の爲に樂を求むれば即ち菩提門に違す。