云何となれば、菩提は乃ち是無上佛道の名なり。若し發心作佛せんと欲はば、此の心廣大にして法界に徧周せん、此の心究竟して等しきこと虚空の如し、此の心長遠にして未來際を盡くす、此の心普く備に二乘の障を離る。若し能く一び此の心を發さば、無始生死の有淪を傾く。所有功德を菩提に廻向すれば、皆能く遠く佛果に詣りて失滅有ること無し。譬へば花を五淨に寄すれば風日にも萎まず、水を靈河に附すれば世旱にも竭くること無きが如し。
第二に菩提の名體を出すとは、然るに菩提に三種有り。一には法身の菩提、二には報身の菩提、三には化身の菩提なり。法身の菩提と言ふは、所謂眞如實相第一義空なり。自性淸淨にして體穢染無し。理天眞に出でて修成を假らざるを名けて法身と爲す。佛道の體本を名けて菩提と曰ふ。報身の菩提と言ふは、備に萬行を修して能く報佛の果を感ず。果因に酬ゆるを以て名けて報身と曰ふ。圓通無礙なるを名けて菩提と曰ふ。化身の菩提と言ふは、謂く報より用を起し能く萬機に趣くを名けて化身と爲す。益物圓通するを名けて菩提と曰ふ。
第三に發心異有ることを顯すとは、今謂く行者因を修し心を發すに其の三種を具せり。一には要ず須く有無本より已來自性淸淨なりと識達すべし。二には萬行を縁修す、八万四千の諸波羅蜜門等なり。三には大慈悲を本と爲して恆に運度せんと擬するを懷と爲す。此の三因は能く大菩提と相應す。故に發菩提心と名く。又『淨土論』(論註卷下意)に據らば云く。「今發菩提心と言ふは、即ち是願作佛心なり。願作佛心は、即ち是度衆生心なり。度衆生心は、即ち衆生を攝取して有佛の國土に生ぜしむるの心なり。今既に淨土に生ぜんと願ず。故に先づ須く菩提心を發すべし」と。