豈劣夫の力を以て必ず虚空に昇ること能はずと言ふことを得べけんや。第五に又十圍の索は千夫も制きらざれども童子劍を揮へば儵爾に兩分するが如し。豈童子の力索を斷つこと能はずと言ふことを得べけんや。第六に又鴆鳥水に入れば魚蜯斯に斃れて皆死し、犀角泥に觸るれば死せる者還活へるが如し。豈生命一たび斷たば生くべからずと言ふことを得べけんや。第七に亦黄鵠子安を喚ぶに子安還活へるが如し。豈墳下の千齡決して蘇へるべきこと無しと言ふことを得べけんや。一切の萬法は皆自力・他力、自攝・他攝有りて千開万閉無量無邊なり。汝豈有礙の識を以て彼の無礙の法を疑ふことを得んや。又五の不思議の中に佛法最も不可思議なり。汝三界の繋業を以て重しと爲し彼の少時の念佛を疑ひて輕しと爲し安樂國に往生して正定聚に入ることを得ずといふは、是の事然らず。 問て曰く。大乘經(業道經)に云く。「業道は秤の如し、重き處先づ牽く」と。云何が衆生一形より已來、或は百年或は十年乃至今日まで惡として造らずといふこと無し。云何が臨終に善知識に遇ひて十念相續して即ち往生を得ん。若し爾らば先牽の義何を以て信を取らん。答て曰く。汝一形の惡業を重しと爲し下品の人の十念の善を以て以輕しと爲すと謂ふは、今當に義を以て輕重の義を挍量せば、正しく心に在り縁に在り決定に在りて時節の久近多少に在らざることを明すなり。云何が心に在る。謂く彼の人造罪の時は自ら虚妄顛倒の心に依止して生ず、此の十念は、善知識の方便安慰して實相の法を聞かしむるに依て生ず。一は實一は虚、豈相比ぶることを得んや。何となれば譬へば千歳の闇室に光若し暫くも至れば即便ち明朗なるが如し。豈闇室に在ること千歳なれば去らずと言ふことを得べけんや。是の故に『遺日摩尼寶經』(意)に云く。「佛迦葉菩薩に告げたまはく。衆生復數千巨億万劫愛欲の中に在りて罪の爲に覆はと雖も、