若し久行の人の念は多く此に依るべし。若し始行の人の念は數を記するも亦好し。此亦聖敎に依るなり。 又問て曰く。今勸に依て念佛三昧を行ぜんと欲す。未だ知らず計念の相状は何似ん。答て曰く。譬へば人有りて空曠の逈なる處に於て怨賊の刀を拔き勇を奮ひ直に來りて殺さんと欲するに値遇す。此の人徑に走りて一河を渡るべきを視る。未だ河に到るに及ばず、即ち此の念を作さく。我河の岸に至らば衣を脱ぎて渡るとや爲ん、衣を著て浮ぶとや爲ん。若し衣を脱ぎて渡らんには唯恐らくは暇無からん、若し衣を著て浮ばんには復首領全く難からんことを畏ると。爾の時但一心に河を渡るの方便を作すことのみ有りて餘の心想間雜すること無からんが如し。行者も亦爾なり。阿彌陀佛を念ずる時も、亦彼の人の渡ることのみを念ふが如く、念念に相次で餘の心想間雜すること無く、或は佛の法身を念じ、或は佛の神力を念じ、或は佛の智慧を念じ、或は佛の毫相を念じ、或は佛の相好を念じ、或は佛の本願を念ぜよ。名を稱することも亦爾なり。但能く專至に相續して斷えざれば、定んで佛前に生ぜん。今後代の學者を勸む。若し其の二諦を會せんと欲はば、但念念不可得なりと知るは即ち是智慧門にして、能く繋念相續して斷えざるは即ち是功德門なり。是の故に『經』(維摩經卷上意)に云く。「菩薩摩訶薩、恆に功德智慧を以て以其の心を修む」と。若し始學の者、未だ相を破すること能はず、但能く相に依て專至せば、往生せざること無し。疑ふべからず。 又問て曰く。『無量壽大經』(卷上)に云く。「十方の衆生、心を至し信樂して我が國に生れんと欲ひて乃至十念せん。若し生れずば正覺を取らじ」と。今世人有りて此の聖敎を聞きて現在一形全く意を作さず、臨終の時に擬して方に修念を欲ふ。是の事云何。答て曰く。此の事類せず。何となれば、『經』に十念相續と云ふは、難からざるに似若たり。然れども諸の凡夫、心は野馬のごとく、識は猨猴よりも劇し、六塵に馳騁して何ぞ曾て停息せん。各々須く宜しく信心を發して、預め自ら剋念し、積習をして性を成じ善根をして堅固ならしむべし。佛大王に告げたまふが如し。人善行を積まば死するとき惡念無し。