凡そ人此の百千生を經て樂に著し放逸にして道を修せず。往福侵く已り盡き還三塗に墮して衆苦を受くることを覺らず」と。是の故に『涅槃經』(北本卷二・南本卷二)に云く。「此の身は苦の集まる所にして、一切皆不淨なり。扼縛癰瘡等の根本にして義利無し。上諸天の身に至るまで皆亦復是の如し」と。是の故に又彼の『經』(北本卷二四・南本卷二二意)に云く。「勸めて不放逸を修せしむ。何を以ての故に、夫れ放逸は是衆惡の本なり、不放逸は乃ち是衆善の源なり。日月の光の諸明の中に最なるが如し。不放逸の法も亦復是の如し。諸の善法に於て最と爲し上と爲す。亦須彌山王の諸の山の中に於て最と爲し上と爲すが如し。不放逸の法も亦復是の如し。諸の善法の中に於て最と爲し上と爲す。何を以ての故に、一切の惡法は猶放逸より生ず。一切の善法は不放逸を本と爲せばなり」と。 第二に問て曰く。無始劫より來六道に輪廻して際無しと云ふと雖も、而も未だ知らず、一劫の中に幾の身數を受けてか、流轉と言ふや。答て曰く。『涅槃經』(北本卷二二・南本卷二〇意)に説くが如し。「三千大千世界の艸木を取りて截りて四寸の籌と爲し、以て一劫の中に受くる所の身の父母の頭數を數へんに、猶自ら澌ず」と。或は云く。「一劫の中に飮む所の母の乳は四大海水よりも多し」と。或は云く。「一劫の中に積む所の身骨は毘富羅山の如し」と。是の如く遠劫より已來徒に生死を受くること今日に至りて、猶凡夫の身と作る。何ぞ曾て思量し傷歎して已まざらんや。 第三に又問て曰く。既に曠大劫より來身を受くることを無數と云ふは、爲は當直爾に總じて説きて人をして厭を生ぜしむるや、爲は當亦經文有りて來證するや。答て曰く。皆是聖敎の明文あり。何となれば、『法華經』(卷三意)に云ふが如し。「過去不可説の久遠大劫に佛の出世有りき。大通智勝如來と號す。十六の王子有り。各々法座に昇りて衆生を敎化す。一一の王子各各六百万億那由他恆河沙の衆生を敎化しき」と。