時劫已に滿ちて、三位を出過せるに由るが故に、名けて佛と爲す。「説」と言ふは、口音に陳唱す、故に名けて説と爲す。又如來機に對して法を説きたまふに多種不同なり、漸頓宜しきに隨ひ隱彰異有り、或は六根通じて説きたまふ、相好も亦然なり、念に應じ縁に隨ひて皆證益を蒙るなり。「無量壽」と言ふは、乃ち是此の地の漢音なり。南無阿彌陀佛と言ふは、又是西國の正音なり。又南は是歸、無は是命、阿は是無、彌は是量、陀は是壽、佛は是覺なり、故に歸命無量壽覺と言ふ。此れ乃ち梵漢相對して其の義此の如し。今無量壽と言ふは是法、覺とは是人、人・法並べ彰す、故に阿彌陀佛と名く。又人・法と言ふは、是所觀の境なり。即ち其の二有り。一には依報、二には正報なり。依報の中に就て即ち其の三有り。一には地下の莊嚴、即ち一切の寶幢光明の互に相映發する等是なり、二には地上の莊嚴、即ち一切の寶地・池林・寶樓・宮閣等是なり。三には虚空の莊嚴、即ち一切の變化の寶宮・華網・寶雲・化鳥・風光の動發せる聲樂等是なり。前の如く三種の差別有りと雖も、皆是彌陀淨國の無漏眞實の勝相なり。此れ即ち總じて依報の莊嚴を結成す。又依報と言ふは、日觀より下華座觀に至る已來は、總じて依報を明す。此の依報の中に就て、即ち通有り別有り。別と言ふは華座の一觀は是其の別依なり、唯彌陀佛に屬す。餘の上の六觀は是其の通依なり、即ち法界の凡聖に屬す、但生ずる者をして共に同じく受用することを得しむ、故に通と言ふ。又此の六の中に就て、即ち眞有り假有り。假と言ふは即ち日想・水想・氷想等、是其の假依なり。是此の界の中の相似の可見の境相なるに由るが故に。眞依と言ふは、即ち瑠璃地より下寶樓觀に至る已來は、是其の眞依なり。是彼の國の眞實無漏の可見の境相なるに由るが故なり。