二に出在何文といふは即ち通有り別有り。通と言ふは即ち三義の不同有り。何となれば、一に「韋提白佛唯願爲我廣説無憂惱處」よりは、即ち是韋提心を標して自ら爲に通じて所求を請ふ。二に「唯願佛日敎我觀於淸淨業處」よりは、即ち是韋提自ら爲に通じて去行を請ふ。三に「世尊光臺現國」よりは、即ち是前の通請の「爲我廣説」の言に酬ゆ。三義の不同有りと雖も、前の通に答へ竟んぬ。別と言ふは、則ち二義有り。一に「韋提白佛我今樂生極樂世界彌陀佛所」よりは、即ち是韋提自ら爲に別して所求を選ぶ。二に「唯願敎我思惟敎我正受」よりは、即ち是韋提自ら爲に別行を修せんことを請ふ。二義の不同有りと雖も、上の別を答へ竟んぬ。 此より已下は次に定散兩門の義を答ふ。 問て曰く。云何が定善と名け、云何が散善と名くる。答て曰く。日觀より下十三觀に至る已來を名けて定善と爲し、三福九品を名けて散善と爲す。 問て曰く。定善の中に何の差別か有る、出でて何れの文にか在る。答て曰く。何れの文にか出でたるとは、『經』に「敎我思惟敎我正受」と言へり、即ち是其の文なり。差別と言ふは即ち二義有り。一には謂く思惟、二には謂く正受なり。思惟と言ふは、即ち是觀の前方便、彼の國の依正二報總別の相を思想するなり。即ち地觀の文の中に説きて「此の如く想する者をば名けて粗々極樂國土を見ると爲す」と言へり。即ち上の「敎我思惟」の一句に合す。正受と言ふは、想心都て息し縁慮並びに亡じて、三昧と相應するを名けて正受と爲す。即ち地觀の文の中に説きて「若し三昧を得ば、彼の國地を見ること了了分明なり」と言へり。即ち上の「敎我正受」の一句に合す。定散二義の不同有りと雖も、總じて上の問に答へ竟んぬ。 又向來の解は、諸師と同じからず。諸師は思惟の一句を將て、用て三福九品に合して、