以て散善と爲し、正受の一句を用て、通じて十六觀に合して、以て定善と爲す。斯の如きの解は、將に謂ふに然らず。何となれば『華嚴經』(晋譯卷一一意)に「思惟正受は但是三昧の異名なり」と説くが如きは、此の地觀の文と同じ。斯の文を以て證す、豈散善に通ずることを得んや。又向來韋提、上には請ひて但「敎我觀於淸淨業處」と言ひ、次下には又請ひて「敎我思惟正受」と言へり。二請有りと雖も、唯是定善なり。又散善の文は都て請へる處無し。但是佛の自開なり。次下の散善縁の中に説きて、「亦令未來世一切凡夫」と云へる已下、即ち是其の文なり。
[和會門]
六に經論の相違を和會するに、廣く問答を施して疑情を釋去すとは、此の門の中に就て即ち其の六有り。一には先づ諸の法師に就て九品の義を解す。二には即ち道理を以て來して之を破す。三には重ねて九品を擧げて返對して之を破す。四には文を出し定んで凡夫の爲にして聖人の爲にせざることを來し證す。五には別時の意を會通す。六には二乘種不生の義を會通す。
[和會門 諸師解釋]
初に諸師の解と言ふは、先づ上輩の三人を擧ぐ。上が上と言ふは、是四地より七地に至る已來の菩薩なり。何が故ぞ知ることを得る、彼に到りて即ち無生忍を得るに由るが故に。上が中といふは、是初地より四地に至る已來の菩薩なり。何が故ぞ知ることを得る、彼に到りて一小劫を經て無生忍を得るに由るが故に。上が下といふは、是種性以上より初地に至る已來の菩薩なり。何が故ぞ知ることを得る、彼に到りて三小劫を經て始めて初地に入るに由るが故に。此の三品の人は皆是大乘の聖人の生ずる位なり。次に中輩の三人を擧ぐれば、諸師云く、中が上は是三果の人なり。何を以てか知ることを得る、彼に到りて即ち羅漢を得るに由るが故なり。中が中といふは是内凡なり。何を以てか知ることを得る、彼に到りて須陀洹を得るに由るが故に。中が下といふは是世善の凡夫にして苦を厭ひ生を求む。何を以てか知ることを得る、彼に到りて一小劫を經て羅漢果を得るに由るが故なり。