是其の九の證なり。十に九品の中に一一に説きて「諸の衆生の爲にす」と言ふが如きは、是其の十の證なり。上來十句の不同有りと雖も、如來此の十六觀の法を説きたまふは、但常沒の衆生の爲にして、大小の聖の于にせずといふことを證明するなり。斯の文を以て證す、豈是謬ならんや。
[和會門 別時意趣]
第五に別時意を會通すといふは、即ち其の二有り。一に『論』(眞諦譯攝大乘論卷中意)に云く。「人多寶佛を念ずれば、即ち無上菩提に於て退墮せざることを得るが如し」とは、凡そ菩提と言ふは乃ち是佛果の名なり、亦是正報なり。道理成佛の法は要ず須く萬行圓備して方に乃ち剋成すべし。豈念佛の一行を將て、即ち成ずることを望まば是の處有ること無けん。未だ證せずと言ふと雖も、萬行の中に是其の一行なり。何を以てか知ることを得る。『華嚴經』(晋譯卷四六意)に説くが如し。「功德雲比丘善財に語りて言く。我佛法三昧海の中に於て唯一行を知る、所謂念佛三昧なり」と。此の文を以て證す、豈一行に非ずや。是一行なりと雖も、生死の中に於て乃至成佛まで永く退沒せず、故に不墮と名く。 問て曰く。若し爾らば、『法華經』(卷一)に云く。「一び南無佛と稱せしもの、皆已に佛道を成ず」と。亦應に成佛し竟るべし。此の二文何の差別か有る。答て曰く。『論』の中の稱佛は唯自ら佛果を成ぜんと欲す。『經』の中の稱佛は九十五種の外道に簡異せんが爲なり、然るに外道の中には都て佛を稱する人無し。但使佛を稱すること一口もすれば即ち佛道の中に在りて攝す、故に「已竟」と言ふ。二には『論』(眞諦譯攝大乘論卷中意)の中に説きて「人唯發願に由て安樂土に生ずるが如し」と云ふは、久來通論の家、論の意を會せずして、錯りて下品下生の十聲の稱佛を引きて、此れと相似せしめて、即ち生ずることを得ずといふ。一金錢の千を成ずることを得るは、多日にして乃ち得べし、一日に即ち千を成ずることを得るには非ざるが如し。