正しく光父の王を益することを明す。此れ如來夫人を見たまふに、極樂に生ぜんと願じ更に得生の行を請ふを以て、佛の本心に稱ひ、又彌陀の願意を顯すことを明す。斯の二請に因て、廣く淨土の門を開く。直韋提去くことを得るのみに非ず、有識之を聞きて皆往く。斯の益有るが故に、所以に如來微笑したまふ。「有五色光從佛口出」と言ふは、此れ一切諸佛の心口の常の威儀、法爾として凡そ出づる所の光必ず利益有ることを明す。「一一光照頻婆頂」と言ふは、正しく口の光餘方を照らさずして、唯王の頂のみを照らすことを明す。然るに佛の光は身の出處に隨ひて、必ず皆益有り。佛の足の下より光を放ちては、即ち地獄道を照益す。若し光膝より出でては、畜生道を照益す。若し光陰藏より出でては、鬼神道を照益す。若し光臍より出でては、脩羅道を照益す。光心より出でては、人道を照益す。若し光口より出でては、二乘の人を照益す。若し光眉間より出でては、大乘の人を照益す。今此の光口より出でて直王の頂のみを照らすは、即ち其の小果を授くることを明す。若し光眉間より出でて即ち佛頂より入れば、即ち菩薩の記を授くるなり。斯の如きの義は、廣多にして無量なり、具に述ぶべからず。「爾時大王雖在幽閉」と言ふ已下は、正しく父の王光頂を照らすことを蒙りて、心眼開くることを得て、障隔多しと雖も自然に相見る。斯れ乃ち光に因て佛を見たてまつるは意の所期に非ず、敬を致し歸依して即ち第三の果を超證することを明す。
二に「爾時世尊」より下「廣説衆譬」に至る已來は、正しく前に夫人別して所求を選ぶ行を答ふることを明す。此れ如來上耆闍沒王宮出より、訖り此の文に至るまで、世尊嘿然として坐して總じて未だ言説したまはざることを明す。但中間の夫人の懺悔・請問・放光・現國等は、乃ち是阿難佛に從ひて王宮にして此の因縁を見て、事了りて山に還りて傳へて、耆闍の大衆に向ひて、上の如きの事を説き、始めて此の文有り。亦是時に佛語無きに非ざるなり。