或は一懺して伹黑障を除き、或は一懺して黄・白等の障を除くことを得、或は一懺して但白障を除く。此を漸除と名け、頓滅と名けず。既に自ら業相の是の如くなるを識らんとならば、唯須く勤心に懺悔すべし。日夜三時・六時等、但憶して即懺を得る者は、最も是上根上行の人なり。譬へば湯火の身を燒くに、亦覺めぬれば即ち卻くるが如し。豈徒に時を待ち處を待ち、縁を待ち人を待ちて方に始めて除くべけんや。三には衆生をして彌陀の依正二報、種種の莊嚴光明等の相、内外照曜して此の日に超過せること、百千万倍なることを識知せしめんと欲す。行者等、若し彼の境の光相を識らずば、即ち此の日輪の光明の相を看、若しは行住坐臥に、禮念し憶想して、常に此の解を作せ。久しからざる間に、即ち定心を得て、彼の淨土の事、快樂の莊嚴を見ん。此の義の爲の故に、世尊先づ敎へて日想觀を作さしめたまふ。
三に「當起想念」より下「状如懸鼓」に至る已來は、正しく敎へて觀察せしむ。此れ身の威儀を正しくして、面を西方に向ひ、境を守り心を住し、堅執して移らざれば、所期皆應ずることを明す。
四に「既見日已」より下「明了」に至る已來は、觀成の相を辨ず。此心を標して日を見、想を制し縁を除きて念念に移らざれば、淨相了然として現ずることを明す。又行者初めて定中に在りて、此の日を見る時、即ち三昧定樂を得て、身心内外融液して不可思議なり。此を見る時に當りて、好く須く心を攝して定をして上心に貪取することを得ざらしむべし。若し貪心を起さば、心水即ち動ず、心動ずるを以ての故に、淨境即ち失す。或は動或は闇、或は黑或は靑・黄・赤・白等の色なるは、安定することを得ず。此の事を見ん時、即ち自ら念言せよ、此等の境相の搖動して安んぜざることは、我が貪心の動念に由て、淨境をして動滅せしむることを致す。即ち自ら安心正念にして、還て本より動相を起せば即ち除きて、靜心還て現ずと。既に此の過を知りなば、更に增上の貪心を起すことを得ざれ。