自身は牀の上に在りて坐し、自の眉間に當りて、一の白き物の豆許の大さの如くなるを著けて、頭を低れ面を水の上に臨めて、一心に此の白き處を照らし看て、更に異縁すること莫れ。又水初め地に在りて波浪住らず、面を臨めて之を觀るに、面像を見ず。觀を爲すこと休まざれば、漸漸に面現ず。初めの時面相住まらずして、乍ち長く乍ち短く、乍ち寬く乍に狹く、乍に見え見えず。此の相現ずる時、更に須く極細に用心すべし。久しからざる間に、水波微細にして、動ずるに似て動ぜず、面相漸く明らかに現ずることを得。面上の眼・耳・鼻・口等を見ると雖も、亦未だ取ることを須ひず、亦妨ぐることを須ひず。但身心を縱にして、有りと知りて取ること勿れ。唯白處を取りて了了に之を觀じて、正念に守護して、意をして異縁に失せしむること勿れ。此を見る時に當りて、心漸く住することを得て、水性湛然なり。又行者等、自心の中の水の波浪住まらざることを識知せんと欲はば、但此の水の動・不動の相を觀じて、即ち自心の境の現不現・明闇の相を知れ。又水の靜なる時を待ち、一米許を取り、水上に當てて、手に信せて之を水の中に投ぐれば、其の水波即ち動じて椀の内に徧ず。自の面を上に臨ましめて之を觀るに、其の白き者即ち動ず。更に豆許を著けて之を水に投ぐるに、波更に大にして、面上の白き者、或は見え見えず。乃至棗等、之を水に投ぐるに、其の波轉た大にして、面上の白き者、及び自身の頭面、總じて皆隱沒して現ぜず、水の動ずるに猶るが故なり。椀と言ふは即ち身器に喩ふ。水と言ふは即ち自の心水に喩ふ。波浪と言ふは即ち亂想の煩惱に喩ふ。漸漸に波浪息むと言ふは、即ち是衆縁を制捨して、心を一境に住せしむるなり。水靜かにして境現ずと言ふは、即ち是能縁の心亂るること無ければ、所縁の境動ぜず、内外恬怕にして所求の相顯然なり。又細想及び麤想あれば、心水即ち動ず。心水既に動ずれば、靜境即ち失す。又細塵及以び麤塵、之を寂靜の水の中に投ずるに、其の水の波浪即ち動ず。又行者等、