前を牒し後を生ず。「先當想像」と言ふは、所觀の境を定む。
六に「閉目開目」より下「如觀掌中」に至る已來は、正しく觀成の相を辨ずることを明す。即ち其の四有り。一には身の四威儀、眼の開合に、一の金像を見ること目の前に現ずるに似たり、常に此の想を作すことを明す。二には既に能く像を觀ず、像即ち須く坐處有るべし。即ち前の華座を想ひ、像上に在りて坐したまふと想へといふことを明す。三には像の坐せるを想見し已りて、心眼即ち開くことを明す。四には心眼既に開けて、即ち金像及び彼の極樂の諸の莊嚴の事を見るに、地上・虚空、了然として礙無きことを明す。又像を觀ずる住心の法は、一ら前の説の如し、頂より一一に之を想へ。面眉の毫相、眼・鼻・口・耳・咽・項・肩・臂・手・指。又心を抽でて上に向かひて想へ、胸・腹・臍・陰・脛・膝・・足、十指・千輪等、一一に之を想へ。上より下に向かふを順觀と名け、下の千輪より上に向かふを逆觀と名く。是の如く逆順に心を住せしむれば、久しからずして必ず成ずることを得。又佛身及び華座・寶地等、必ず須く上下通觀すべし。然るに十三觀の中に、此の寶地・寶華・金像等の觀最も要なり。若し人を敎へんと欲はば、即ち此の法を敎へよ。但此の一法成じぬれば、餘の觀即ち自然に了かなり。
七に「見此」より已下は、上の像身觀を結成して、後の二菩薩觀を生ず。
八に「復當更作一大蓮華」より下「坐右華座」に至る已來は、正しく上の三身觀を成じて、後の多身觀を生ずることを明す。此の二菩薩を觀ぜむと欲はん者は、一に佛を觀ずる法の如くすべし。
九に「此想成時」より下「徧滿彼國」に至る已來は、正しく上の多身觀を結成して、後の説法の相を生ずることを明す。此れ諸の行者等、行住坐臥に、常に彼の國の一切の寶樹、一切の寶樓・華池等を縁ずることを明す。若しは禮念し、若しは觀想して、常に此の解を作せ。
十に「此想成時」より下「憶持不捨」に至る已來は、正しく定に因て極樂の莊嚴を見ることを得、