一一に之を觀じ、暫くも休息すること無れ。或は頂相を想ひ、或は眉間の白毫、乃至足下千輪の相を想へ。此の想を作す時、佛像端嚴にして、相好具足し、了然として現ず。乃ち心一一の相を縁ずるに由るが故に、即ち一一の相現ず。心若し縁ぜずば、衆相見るべからず。但自心に想作すれば、即ち心に應じて現ずるが故に、「是心即是三十二相」と言ふ。「八十隨形好」と言ふは、佛相既に現ずれば、衆好皆隨ふなり。此れ正しく如來諸の想者を敎へて具足して觀ぜしめたまふことを明す。「是心作佛」すと言ふは、自の信心に依て相を縁ずるは作の如し。「是心是佛」と言ふは、心能く佛を想へば、想に依て佛身而も現ず。即ち是の心佛なり。此の心を離れて外に、更に異佛ましまさず。「諸佛正徧知」と言ふは、此れ諸佛圓滿無障礙智を得て、作意と不作意と、常に能く徧く法界の心を知りたまへり。但能く想を作せば、即ち汝が心想に從ひて現じたまふこと生ずるが似如しと明す。或は行者有りて、此の一門の義を將て、唯識法身の觀を作し、或は自性淸淨佛性の觀と作すは、其の意甚だ錯れり。絶えて少分も相似たること無し。既に像を想へと言ひて、三十二相を假立せるは、眞如法界の身豈相有りて縁ずべく、身有りて取るべけんや。然るに法身は色無く、眼對に絶えたり、更に類として方ぶべき無し。故に虚空を取りて、以て法身の體に喩ふるなり。又今此の觀門は、等しく唯方を指し相を立てて、心を住せしめて境を取らしむ。總て無相離念を明さず。如來懸に末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも尚得ること能はずと。何に況や相を離れて事を求めんは、術通無き人の、空に居て舍を立てんが如し。
四に「是故應當」より下「三佛陀」に至る已來は、正しく前の如き所益、專注すれば必ず成ずと、展轉して相敎へ、勸めて彼の佛を觀ぜしむることを明す。
五に「想彼佛」よりは、