五に「若念佛者」より下「生諸佛家」に至る已來は、正しく念佛三昧の功能超絶して實に雜善をして比類と爲ることを得るに非ざることを顯す。即ち其に五有り。一には彌陀佛の名を專念することを明す。二には能念の人を指讚することを明す。三には若し能く相續して念佛する者、此の人甚だ希有なりと爲す、更に物として以て之に方ぶべきこと無きことを明す。故に分陀利を引きて喩へ爲す。「分陀利」と言ふは、人中の好華と名く、亦希有華と名く、亦人中の上上華と名く、亦人中の妙好華と名く。此の華相傳えて蔡華と名くる是なり。若し念佛の者は、即ち是人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。四には彌陀の名を專念せれば、即ち觀音・勢至常に隨ひて影護したまふこと、亦親友知識の如くなることを明す。五には今生に既に此の益を蒙れり、命を捨てて即ち諸佛の家に入らん、即ち淨土是なり。彼に到りて長時に法を聞き、歴事供養せん、因圓かに果滿ず。道場の座豈賖ならんといふことを明す。
六に「佛告阿難汝好持是語」より已下は、正しく彌陀の名號を付屬して、遐代に流通することを明す。上來定散兩門の益を説くと雖も、佛の本願の意を望まんには、衆生をして一向に專ら彌陀佛の名を稱するに在り。
七に「佛説此語時」より已下は、正しく能請能傳等の、未だ聞かざる所を聞き、未だ見ざる所を見、甘露を飡しるに遇ひて、憙躍以て自ら勝ふること無きことを明す。
上來七句の不同有りと雖も、廣く王宮の流通分を解し竟んぬ。
[耆闍分]
五に耆闍會の中に就て、亦其の三有り。
一に「爾時世尊」より已下は、耆闍の序分を明す。
二に「爾時阿難」より已下は、耆闍の正宗分を明す。
三に「無量諸天」より已下は、耆闍の流通分を明す。
上來三義の不同有りと雖も、總じて耆闍分を明し竟んぬ。