一一の身分亦皆之を想へ。心想に隨ふ時、佛身即ち現ず」と。此は是彌陀の三力外に加して即ち見佛を得るなり。亦見佛三昧增上縁と名く。

又下に『經』(觀經意)に云ふが如し。「彼の佛を想はん者は、先づ當に像を想ふべし。一の金像を見るに、彼の華上に坐せり。既に想見し已りて心眼即ち開く。了了分明に、及び彼の國の一切の莊嚴を見る」と。此れ亦是彌陀の三力外に加するが故に見佛す。故に見佛三昧增上縁と名く。

又下に『經』(觀經意)に云ふが如し。「次に二菩薩及び諸の光明を想へ。了了として見る、此の事を見る時、行者即ち三昧定の中に於て當に水流・光明・莊嚴等の説法の聲を聞くべし。出定・入定に行者常に妙法を聞く」と。此れ又是彌陀佛の三力外に加するが故に見佛す。故に見佛三昧增上縁と名く。

又下に眞身觀の中に説きて云ふが如し。「佛阿難に告げたまはく。像觀成じ已らば次に更に無量壽佛を觀ずべし。身は眞金色なり、眉間の毫相・圓光・化佛、及び相好等の光但當に憶想して心眼もて見たてまつらしむべし。見已りて即ち十方一切の諸佛を見たてまつる。故に念佛三昧と名く」と。この文を以て證す。亦是彌陀佛の三力外に加するが故に見佛す。故に見佛三昧增上縁と名く。

又下に『經』(觀經意)に云ふが如し。「佛言はく。是の故に智者一心に諦かに無量壽佛を觀ずべし。一の相好より入れ。但眉間の白毫を觀じて極めて明了ならしむれば、八万四千の相好自然に之を見るべし。見已りて即ち十方一切の諸佛を見たてまつる。諸佛の前にして次第に授記せらる」と。又この經を以て證す。亦是彌陀佛の三力外に加するが故に、凡夫をして專心に想はしむることを得ば、