亦因果を信じて勤めて道を修行すべきや。答。理必ず然るべし。『淨名經』(卷中)に云ふが如し。「諸佛國と衆生との空なることを觀ずと雖も、而も常に淨土を修して諸の群生を敎化すと」。『中論』(卷三)の偈に云く。「空なりと雖も亦斷ならず、有なりと雖も而も常ならず。業と果報との失せざる、是を佛の所説と名く」と。又『大論』(卷二七)に云く。「若し諸法皆空ならば、則ち衆生無し。誰か度すべき者あらん。是の時には悲心便ち弱し。或は時に衆生の愍むべきを以てせば、諸法の空觀に於て弱し。若し方便力を得れば、此の二法に於て、等しくして偏黨無けん。大悲心は諸法の實相を妨げず。諸法の實相を得れども大悲を妨げず。是の如き方便を生ずる是の時、便ち菩薩の法位に入りて阿鞞跋致地に住すること得」と。略抄 問。若し偏じて解を生ぜば其の過云何。答。『無上依經』の上卷に、空見を明して云く。「若し人有りて我見を執すること須彌山の如く大ならんも、我驚怖せず、亦毀呰せず。增上慢の人の、空見を執着すること一髭髮もて十六分に作すが如くなるも、我許可せず」と。又『中論』の第二の偈に云く。「大聖の空法を説きたまふは、諸見を離れしめんが爲の故なり。若し復空有りと見ば、諸佛の化せざる所なり」と。『佛藏經』の念僧品(卷上)に有所得の執を破して云く。「有所得の者は、我と人と壽者と命者有りと説きて、無所有の法を憶念し分別して、或は斷・常と説き、或は有作と説き、或は無作と説かん。我が淸淨の法は、是の因縁を以て、漸漸に滅盡せん。我久しく生死に在りて、諸の苦惱を受けて、成ぜし所の菩提をば、是の諸の惡人、爾の時に毀壞せん」と。略抄 又同じき『經』の淨戒品(卷中淨法品?)に云く。「我見・人見・衆生見の者は、多く邪見に墮つ。斷滅見の者は、多く疾く道を得。何を以ての故に、是捨て易きが故なり。是の故に當に知るべし、是の人は寧ろ自ら利刀を以て舌を割くも衆中にして不淨説法すべからず」と。有所得執を名けて不淨と爲す 『大論』(卷三七)に二執の過を並べ明して云く。「譬へば人の陜道を行くに、一邊は深水、一邊は大火にして、